BMWのスタディーさんが、名古屋のスーパーオート
バックスさん内に、お店をオープンした日に、ジブンは
お手伝いに行きました、、。
そこの2階の本屋さんで、これを見つけ、即買いしました!
1970年代のルマン24Hの記録が、、。
72年の参加車両は、翌年から3Lスポーツプロトに
変わる、最後の年で、917やフェラーリ512など、5Lの
エンジンは、参加出来ません。
そんな最後の年に、愛称”ピッグ”として917が、、。
そして、もう一つは、フェラーリ、いや ディノGTが2,4Lエンジンの
スペシャル軽量アルミボディーで、完走しました。
73年は、シグマ(現サード)が、MC73で、日本人と
して、初参加です。
それもオリジナル車両で、、。
絵の右、左ドアはジブンが冬の寒いなか、初めての徹夜を
経験しながら、水研といって、ファイバーボディーを冷たい
水で、表面を研ぎました、、。
そう、指の指紋が無くなる位、、。
結果は、クラッチトラブルで、、。
学生時代、初徹夜、初仕事は、レースカーのFRP製作のお手伝い!
数年後、ジブンはシグマに就職しますが、この記念すべき
車両は、廻りまわって今は亡きナイトスポーツさんの釜塚さんのから
返却して頂き、ジブンが当事いただきました。
が、ジブンが東京に長期出張中、誰かがかっさらって
いきました。
日本のどこかに、あるはずです、、!
74年のシグマMC74です。
この車両は、ジブンもレースカー製作に携わって2年目。
色々お手伝いしました。
このボディーは、初めての試みで、ゼッケンナンバーを
内側から照明してナンバーを浮き上がらせることを、、。
そう、エンジンは、これも12Aのロータリーで、、。
この車両は、現在、マツダさんが所有してるそうです。
途中、マツダオート東京のあるメカさんが、ピットレーンで、
エンジンをバラシ、アペックスシールを交換、、。
完走しましたが、周回数不足で完走ならず、。
75年は、マールボロカラーのシグマMC75です。
エンジンは、トヨタ自動車さんの136Eという、当事
セリカターボでフジ1000kmレースなどで、優勝した
由緒あるエンジンを搭載しました。
そう、2TGターボのレースエンジンです。
ボディーデザインは、これも、74と同じ方がデザイン、、。
この車両は、タイムが遅く出場不可でしたが、他ティーム
(フェラーリ群が)ある問題を不服として撤退したので、。
しかし、エンジンが、途中、ドライサンプを駆動してる
オイルポンプのトラブルでか、エンジンバルブのバルブ
ウプリングが折れ、それがオイルパンに落ちました。
それを取る為、オイルパンを外したりと、孤軍奮闘
されましたが、、。
当事のメカとして、今はあるオイルメーカーの社長さんは、
そのオイルを全身に被りながらの必死の作業でしたが、、。
TOSCO時代(現TRD)の彼が、、。
全部喋りたいが、これ以上は個人情報が、、。
加藤氏自らKKK社に訪ね、ターボを結っていただきますが、
それには、ポルシェ社が紹介してくれたそうです。
それが縁で、その後、KKK製ターボは、極東では
シグマが総代理権を得まして、ブリッツ社が生まれる訳です。
この車両は、今はもう、時効でしょうが、76年以降、今は亡き
成瀬さん(FLAでニュルの)が夜な夜な、会社が終わってから
改修され、77年には、黒澤元治さんらによって、レース参加、、。
このときは、ジブンもいっぱしのレースメカ(?)で、レース参戦、
成瀬さんには、色々教わりました、、。
この車両は、今愛知県内にあります。
77年は、シグマの加藤さんに連れられて、初めての渡航で
あります。
右も左も分かりません。
当時は、エアロフロートというソ連(当事ロシア)の飛行機で、。
優勝は、ポルシェ936でした。
ルノースポーツから1975年から出場のアルピーヌA441
2L V6ターボが必勝大勢で望みましたが、自滅、、。
936も、最後は、シリンダーが1気筒つぶれ、プラグを外して
最後のチェッカーまで待って、薄氷の勝利でした。
この年、ルマン観戦の後、ジブンは、そのルノースポーツにエンジン学習の為、
約1W間、出張しました。
935は、絶頂期でした。
ターボ時代の到来ですが、あまりに935が強すぎる為、
スポーツカーレースに935以外の強敵が現れず、
上位独占のレースが続き、これらも終焉を迎えます。
その後は、956/962Cとポルシェの時代は続きます!
ツルタ何度目かの回想録です。
また、このお話か!とお嘆きの皆様、ジージのたわ言と
お聞き流しくだされ!!!
つづく。