先日、レーシングオン 512号が,発刊されました。
懐かしの1973年、アタシが大学2年生の春、シグマに
手弁当で、広島から、豊田市のシグマオートモーティヴ
(現サード)に駆け付けた年であります。
正確には、前年72年の11月に、一度訪れてますが、。

1973年3月のグラチャン初戦で、シグマGC73の
製作に、一からお手伝いでしました。
勿論、フジスピードウエイに行くのも初めて、初めて
づくし、、。

シグマGC73です。

右は、そのお手本となったGRDS72です、。
生沢氏や、ノバの森脇氏が手掛けた、。
このマシンは、後日、アタシが、オーバーホールの為、
全バラしました。
このマシンのS73モデルは、森脇氏と安井氏(元シグマ)
のお二人で、グラチャンに参戦を一度だけ、されてます。
ドライバーは、バーン,シュパン氏です。
オーストラリア人で、後日、彼はポルシェ956,962C
で、国外、国内(トラストポルシェ)で、大活躍、。

グラチャンでは、アタシラ、シグマティームのよこで、
S73で、メンテナンスされていた森脇氏の姿が印象に
残ってます。
当時は、ピット裏といっても、サービスバンがあるくらいで、
プラクティスから帰ってきた、シュパン氏は、ゼイゼイいい
ながら、レース用タイヤの上にへたり込んで、休んで
いたのを思い出します。

当時は、ピット裏から、ヘヤピンが見えてまして、レース中、
バーン、シュパン氏のドライブするS73が、ヘヤピンから
立ち上がる時のシフトワークは、そりゃ、今でも鮮明に
覚えてますが、英国製ヒューランドFG400のミッションが
ドグミッションで、多分、クラッチなど踏まず、シフトアップ
してるのでしょう、パーン、パーン、パーンと、まるで、
現在のパドルシフトのような、早さでシフトアップされて
ました、、、。

また、こんなカットも、掲載されてました。

右の私服の右フェンダーを持ち上げてる方は、あとで、この
マシンを購入されたマツダオート東京(現マツダスピードの
前身)の大橋さんです。

アタシが、左前輪を何かしてます、、!!?

白いメカニックスーツの3人は、当時、まだ、発展途上の
ブリヂストンのエンジニア達です。
ドライバーは、もちろん、生沢徹氏です。

場所は、富士スピードウエイ、30度バンクのフルコースの
ピット前です。

孫に、自慢して見せなきゃ!
ジイジ、何してたの?  
レースメカじゃけーの!

などと、、!
そう、思い出話は、孫くらいしか、真剣に聞いてくれ
ません!

悲しい思い出も、。
これは、73年11月の最終戦で、30度バンクでの、、。
中野選手が、、。

翌年、74年は、30度バンク手前で、風戸選手、鈴木選手
が、焼死しました。
どちらも、アタシは、現場にいました、、。
といっても、現在の筑波サーキットみたいな簡素な
ピットで、30度バンク付近から、真っ黒い煙が立ちあがる
のを、、。

アルミモノコックのツインチューブシャシーは、ドライバー
の座席の両側のアルミモノコックの中に、ガスバックが、
合わせて100リッターくらい入ってます。
これが、破裂すれば、それは、ゼロ戦みたいに、、。

この樹脂で製作されたガスバックは、シグマGC,MC73、
CG75,MC75など、、。
物は、豊田市のトヨタ自動車の協力会社で、小島プレス社が
製作した物です。
これは、トヨタ7時代に、小島プレス社が、ガスバックを
担当し、表面に樹脂成型された航空機用の応用品です。

アタシは、当時、ガスバックのガス漏れ修理の為、
アルミモノコックのサイドにある、サービスホールという
ものから、そのガスバックをねじり出して、漏れた個所を
修理していてだく為、小島プレス、高岡工場の住吉町まで、
シグマの若林町(地元方しか分らん、超マイナーな)から、
よく訪問し、すみません、また漏れましたので、修理を
お願いします!などと、。
すると、顔なじみとなった担当者の方が、修理するための
マットや、樹脂剤を渡され、そちらで修理されてはなどと、。
そう、アタシャ、ガスバックも修理出来たのじゃ!

と、昔話に花が咲く!であります。
ブログは、便利じゃ、言いたいこと、言いたい放題じゃ!

つづく。