ポルシェ934です!。
1977年頃、シグマ(現サード)在籍時、名古屋の
ホワイトベアという有名な喫茶店のオーナーS氏が、ある
自動車屋さんを通して、尋ねてこられ、ターボが不調だから、
直して欲しいと、、。
で、ドイツ、kkk社(現ボルグワーナー社)より、
新品ターボを取り寄せました。
テスト走行は、当時大橋氏(現コスモス代表)2人で、
試乗しました、。
トヨタ自動車、上郷工場、東側を南北に走る県道76号線、
現在は、片側2車線の4車線と広いですが、当時は、中央
2車線のみ舗装路で、両側は地道、。
それでも、シグマから一番近い直線路。
第2次大戦中は、上郷から安城まで、軍の飛行場があった
跡地で、家内のお父さん(他界)は、畑を耕してるとき、
米軍の飛行機から機銃掃射を受けたとか、。

それくらい長く、4km以上の片側1車線の道路で、
大橋さんがドライバー、アタシが、ブースト系など確認
する役で、加速するぞ!と、、。
当時の934は、レーシングカーの市販車で、タイヤは
スリック、中は、ロールケージと、まさに、化け物。
ブースト圧、1,2を確認して納車しましたが、その
加速たるや、当時のアタシの経験上、200PS以上は、
ポルシェ911 2,7RSの220PSくらいしか、。

もう、轟音とリヤタイヤが温まらず、ホイールスピンの
連続で、4000RPMを超えるくらいから、強烈な
加速を大橋氏が、ステアリングを右に左に操作しながら、。
彼は、当時、第1回ダートラ日本選手権で、年間チャンピオン
になったくらいの腕前で、ドリフトは朝飯前、。
その彼が、
毎回、テスト中にビビる!などと、、。
良き思い出でありまする!

ポルシェ924です。初代の車両です。
東大阪、ポルシェ正規ディーラー”レッドライン”、
今は廃業されてますが、社長の村田氏は、根っからの
レース好き、1968年日本GPにも、レッドラインSPで
参戦(この時は、決勝不出場)されてました。

生沢大将が、ニッサンR381の北野元氏に続き、910
で2位に入ったレース、、。

で、村田氏が、924にターボを取り付け、販売したと
無茶苦茶な注文。
アタシャ、無理ですとも言えず、何日も掛けて、ターボを
組み付けました。
燃料噴射のKジェトロを研究の為、当時、名古屋、千種にあった
ミツワ、ポルシェディーラーの上村工場長を訪ね、
Kジェトロの仕組みから教わりました。

計7台販売しました。
結構、速かったです、ブースト圧、0,9くらいまで
上げて、、。
メタルヘッドガスケットも製作して、。
当時のスーパーカーブームで、鈴鹿サーキットにて、
スーパーカーのレースがあり、それに参戦しました。

2000年初頭、北米、ジョージア州アトランタの”ロード
アトランタ”サーキットにて、織戸学選手を引き連れ、
その年のルマン24H参戦に向け、ドイツティームの
ロークレーシングから、参戦予定で、その練習の為、
わざわざ、行ったのでありまする、。
結局、ロークレーシングは、参戦することが出来ず、
銭を取られ、アタシャ、日本のスポンサーに銭を、。
悔しい思い出であります。

この前年の1999年、最初で最後の富士ルマン1000
kmレースがあり、織戸氏には、参戦し、GT3クラスで、
2位に入りました。
クラス1位は、タイサンポルシェ996GT3Rで、翌年の
ルマン参戦の権利を奪われまして、彼らは、クラス優勝
するのであります、、!

911GT1プロトタイプです。
1996年、ポールリカーでのテスト風景、。
設計者のノベルト、ジンガー氏が後ろに写ってます・
彼は、917の開発にも参加されたツワモノです!
アタシらは、同じ993GT2EVOで、ル・マン参戦の
為、テストしてました。
まだ、993GT2EVOは、この時開発段階で、油温の
冷却が不十分で、苦労してました、、。

三代真史氏(みしろまさし)です。
彼とも、ポルシェつながりで、長いお付き合いをさせて
いただいてます。
彼の三代舞踊団定期公演にも、1回だけ、参加させて
いただきました。
それが、そのアイメック時代のポルシェを会場に持ち込み
演出に、協力を、、。
1997年の春に、、。

まだまだ、いっぱいあるんですが、、。
また、次の機会に、、。

つづく。