トヨタ2000GT スピードトライアル挑戦車両です。

ウィキペデアによると、1966年、当時の矢田部高速
試験場にて、トヨタ2000GTのスピードトライアルに
挑戦し、数々の大記録を打ち立てました。

その時の車両は、すでに廃車となりました。
が、1968年に北米、キャロル、シェルビー率いる
シェルビーアメリカンに、トヨタ自動車として、レース
参戦を計画、車両を持ち込み、シェルビーで、各部分が
改造され、アメリカ国内の有名なレース、SCCAに
1年間、参戦しました。

映画、”フォード&フェラーリ”で、ケン、マイルズ役の
クリスチャン、ベール氏は、ターミネーター4など、
多く出演してますが、ケン、マイルズ氏のイメージ
ピッタリです。

その映画で、コブラで出場していたレースがSCCA
(スポーツカクラブアメリカ)で、国内レースでは、
最高峰で、シリーズ戦でした。
あの、ロレックスデイトナ、そして、デイトナ24Hレースに
70歳で、参戦した、ポール、ニューマン氏も、日産
Zで、多く参戦していました。

トヨタ2000GTのライバルは、当時の911Rでした。
この911Rは、その当時の同スピードトライアルにも、
挑戦し、数々の記録を残しました。

この911Rは、2台製作され、1台、記録を出した
車両は、何と、アタシの友人Y氏が、その後、イタリアに
合ったのを、日本に、持ち帰り、千葉の方に、売りました。
で、お亡くなりにあり、親族が手放しましたが、今では、
その価格は、数億円とか、、。
話が、また、脱線!

トヨタ2000GTのお話に戻って、。
その時の日本人エンジニアが一人、帯同しました。
彼の名前は、そう、現サード会長の、加藤真さんです。
彼と、キャロル、シェルビーさんは、ダチです。
よくシェルビーさんとの、思い出が加藤さんから、酒の
席上、聞かされました、無類のオンナズキ!だそうです!!
ま、皆さん、そうですが、、!
で、レースの結果は、ポルシェの後塵を浴び、翌年の
参戦を中止したそうです。

で、その時の車両をシャルビー好きのコレクターから
買取、日本に持ち込み、FISCOでのトヨタ感謝デーに
間に合わせるため、スピードトライアル車両のイメージで、
トヨタ自動車、博物館などの車両を一切、レストアしている
新明工業の石川メカ(長老であります)と、細谷さんらが
協力して、作り上げたそうです、徹夜で、、。

で、今回のお話は、ホイールです。

シェルビーレーシングと、センターディスクに、鋳型
で浮き出てます。
そうなんです、このデザインが、その後、量産車の2000
GTに受け継がれました。
初代は、スポークホイールでしたが、。
007 二度死ぬで、世界ディビューした車両は、オープン
のスポークホイールでしたが、。

で、シェルビーアメリカンで、製作されたこの鋳造ホイール
が、アルミか、マグネかは、アタシャ、知りません。

多分、シェルビー製も、マグネ鋳造でしょう。

国内販売された量産車のマグネシウム鋳造ホイールは、
神戸製鋼社の物です。

1973年、ル・マン24Hに日本人として、初の
国産マシンで参戦したMC73は、その神戸製鋼社で、
マグネ鋳造のホイールが組まれてました。
アタシャ、何度も、この黒いホイールを整備しました
ので、、。

2000GTのオン前に、御立になってる御仁は、
そう、当時のスピードトライアルに参加した4人、
福沢、細谷、津々見、そして、鮒子田寛さん、その人です。
後日、このフェステバルで、試乗した津々見氏と
お話しましたが、まっすぐ走らなく、怖かったよ!と、。

彼は、MC73にも、生沢徹氏と一緒に、ル・マン24H
1973年に、参戦されてます。
日本人初のルマン24H,参戦ドライバーなのです。

また、そのスピードトライアル中に、エンジン不調に
なり、ピットに帰った車両の、トラブル箇所を探ってる
DVDがあるのですが、そのメカさんは、栗谷さんと
いって、シグマオートモーティブ(現サードの前身)で、
加藤氏と一緒に、トヨタ7時代のメカ長さんでしたが、
一緒に、小野氏とともに、設立当時からのメンバーでした。

トヨタ7は、ターボ時代も4台ありました。
そのうちの1台のメカ長さんには、同僚であった、
今は亡き、成瀬さんも、おられました。
何を隠そう、一時期、シグマGC76時代、黒沢元治
ドライバーと、陰で、シグマに、夜な夜な、駆け付けて
くれて、マシンの補強など、成瀬さんが、手伝って
くれてました。
アタシャ、色々、マシンの製作や、溶接も指導を受けました。

どちらの方にも、ワキャアタシは、ご指導を受けたの
でありまする!
自慢話で、ありまする!

つづく。