アタシの昔のお話であります。
年取ると、同じこと、何回もしゃべるんじゃ!

絵は、左からMC73、74、75です。

MC73は、1973年ルマン24Hレースに、初めて
日本人の製造した車両で、日本人のドライバーを乗せて
参加したレースカーです。
エンジンは、マツダのロータリーエンジン10Aです。

真ん中のMC74は、続けてルマン24Hレースに、マツダ
オート東京と、参戦したマシンです。

右のMC75は、ルマン参戦最後(その後、参戦は90年代
のマシンで)、初めてトヨタ自動車の2TGターボ(トヨタ
エンジン開発番号、136E、セリカターボで、雨の富士で
高橋晴邦選手が優勝した)が、搭載されました。

このエンジンは、2TGをベースに、トヨタ自動車第7開発部
が、ヤマハさんと開発したエンジンで、インタークーラー
も無く、今では原始的なレイアウトでした。
ルマン参戦時は、空冷の大きなインタークーラーを、、。
アタシは、このエンジンを直に見ながら、4AGターボを、、。

1972年の暮れに、アタシは縁あって、シグマ(現サード)を
訪れ、当時大学1年生でしたが、翌年の1973年3月から
2W程度割合で、グランちゃんマシンの製作と、同時進行して
いたMC73の製作にお手伝いしてました、、。

内容は、ネットに色々掲載されてますので、、。

1974年は、当時、大橋孝志さん率いる、マツダオート
東京と一体となり、ルマンに参戦、、。
後年、マツダスピードで、ルマン24H参戦、日本人、日本
初の総合優勝を、、。
絵の青いヘルメットは、岡本安弘氏で、後のMC87では、
サードのワークスドライバーに、、。

これは、当時のオートスポーツ紙に、アタシが映ってる絵
です、。
MC74の富士での、事前テスト風景です、。
右で、白い帽子を被った横顔の好青年!が、アタシ!

思い出しましたが、何でアタシが白い帽子を被っているのか、。
シグマの帽子じゃありゃんせん。
アタシャ、そんなに帽子を被って仕事したことありゃんせん!
当時、シグマの社長加藤真氏のお父様で、トヨタ自動車
販売の社長加藤誠之氏が(神谷正太郎氏が、まだ、会長であって、
その後、加藤誠之氏は、会長になられ、当時、トヨタ自動車工業、
社長豊田英二氏とトヨタ自動車販売を一本化するように、
大英断され、現在のトヨタ自動車になる)、現在のサードに、
センチュリー(もちろん、運転手付きで)、時々ひょこっと、
お尋ねになられました。

嘘のようですが、昭和52年くらいは、シグマは、アタシ一人で
やっていた時代があり、汚いつなぎか、夏は暑いので、
Tシャツ、ナッパズボン姿で、ひとりシコシコ、ターボの
組み付けで、タコ足を曲げていたり、アルミチャンバーを
組み立て溶接し、単品でキャブターボを作っていました、。

とある日、会長になられたころでしょうか、ミカン箱くらいの
ダンボールを何箱も、持ってこられました。
中には、会長が各地で、ゴルフをおやりになっていたようですが、
そのゴルフ場で、毎回帽子を購入されていたようで、それが
あまりに溜まったので、”おい、これやるから、被って仕事
しろ、頭大事にしろ!”などと、、。
で、何故か、あのころ、ゴルフ帽子を被っていたような、!

左側で、何かアタシに伝えてる方が、今は亡き、シグマの
チーフメカ、栗谷氏です。
ドライバーは、ヘルメットの色から、寺田陽次郎氏かと、。
マシンの、フロントのステッカー”SHC”は、現在は、
”モービル1”の前身のロゴです。
富士を左周りのコースで、、。
マシンのデザインは、元某T社の川北氏が、斬新な、、。
川北氏は、75年のフロントのダルノーズデザインも、。
TS050のイメージとも、、。
このマシンは、現在、マツダミュージアムに展示されてる
そうです。

中央のマシンの後ろに立ってる方が、やはり、今は亡き
当時のマツダオート東京の代表、大橋氏、。
アタシの左で、何かマシンを覗いてる方は、マツダオート
東京のチーフメカ(お名前忘れました、雨宮さんにところで、
後日お会いしたことあり)。
彼は、ルマンレース中、当時のピット前(栄光のルマンの、
ピットで、筑波サーキットのピットみたいに、壁があり、
マシンをピットに直接入れることが出来ない)で、
マシンからエンジンを降ろし、分解、アペックスシールを
交換、再びエンジン始動し、ピットスタートさせました。
その時は、周囲から感激の拍手が、、、。

73,74、75と、マシン製作に参加させていただき、
色んな事をこの3年間で、学びました。

MC75については、1975年は、アタシが、大学4年
で、卒業研究で、日夜、大学に泊まり込んで、2次元煙
風洞を製作していましたので、殆どシグマには行ってません。
ので、マシン製作には、あまり携わってませんが、卒業後、
シグマに就職し、MC75の整理と、その後のMC77
(最後のマシン)製作の為、エンジンなど移植してました。

このMC75は、シグマにとって初のトヨタエンジンです。
2TGターボですが、ターボが良く壊れるので、現地で
ポルシェの技術員に方に、加藤氏は紹介され、ポルシェが
使っていた当時、KKK製(現在、ボルグワーナー社に
買収されましたが、ポルシェは、現在まで使い続けてます)
ターボをKKKの方が、気安くターボを出したくれました。

その後、シグマは、KKK製ターボの極東の代理店となり、
ブリッツブランドを他の方々と立ち上げ、現在に至ってます。

で、そのレース中に、2TGターボは、運悪く、オーバーレブ
か何かで、バルブスプリングの一部が折れ、オイルパンに落ち、
それをドライサンプ用オイルポンプが吸って(オイルポンプは、
一部、エンジン内にあるよう書いてますが、それは間違いで、
ポンプ本体は、オルタネーターのように、エンジンブロック
の横にステーで、固定され、駆動は、クランクプーリー
から、細い1本のVベルトで駆動していました)しまい、
で、ポンプがロック、油圧低下で、ピットイン。

すぐさま、バルブスプリングの他の破片など、クリーニング
する為、ピット前で、オイルパンを外したそうです。
その作業を行ったのが、今は、NUTECという会社を興し
ニューテックというブランドオイルを立ち上げた、当時TRDの
技術員、鳩谷和春氏です。
オイルパンを剥がすとき、オイルパンがガバーとはずれ、
エンジン下で作業していた彼は、そう、オイルまみれになった
のです。

こんなことばかり、鮮明に覚えとるのでありまする。

アタシの財産でありまする!

つづく。