1967年式 トヨタ2000GT 初期ものです。

今年の春からレストアを豊田市の新明工業さんに持ち込み、
フルレストアしてきました、。
完成であります、。
ので、納車式典を執り行いますです!

工場から、出荷です。
事前に、新明工業の猛者I氏(82歳の)自ら、試乗され、
高速道も走行され、異常無しと、、。

トヨタ7や、2000GT矢田部で、世界記録挑戦された
細谷さんです。

I氏とは、同級で、当時、トヨタ7を鈴鹿でテスト走行するのに、
トレーラーを製作、I氏自ら、鈴鹿サーキットまで、トヨタ7を
輸送した本人です。

もう、2000GTの祭典には、I氏は、欠かせません。
その、I氏が、今回の納車式に、細谷さんを呼びました。
”おーうい、来てくれんかの、現オーナーさんが、たっての
希望だで!”などと、、。

”ええよ!”と、気楽に、、。

新明工業さんの玄関で、サイン攻めに、、。

左から、新明工業の猛者、I氏。
中央は、細谷四方洋(しほみ)さん。
右は、現オーナーさんです。

細谷さんの歴史を、、。

1963年第1回日本GPにて、。
広島、呉出身で、友人の急遽、ピンチヒッターで、700cc
のパブリカで戦線、いきなり、3位入賞、これで、トヨタから
勧誘が、、。

1966年、第3回日本グランプリ。
トヨタ200GTで、参戦!
プリンスR380(まだ、日産に吸収される前)の2台に
続き、総合3位。

この年は、滝進太郎氏が持ち込んだ、ポルシェカレラ6に、
生沢氏が、R380でブロックしたレースでした。

1968年、トヨタとニッサンのTN戦争の始まり!
68年日本グランプリ、5月開催で、。
細谷氏は、デェビューした3Lのトヨタ7で参戦。
惜しくも、リタイヤ!

アタシは、広島で、TV放送されましたが、かじりついて、。

1969年、日本グランプリです。

日産は、前年度に続き、トヨタ車に対し、排気量をアップ
して、R382で、勝ち逃げしました(表現悪いが、)。

ポルシェ917が、滝レーシングから、参戦。
細谷氏は、久木留氏(ダイハツから)と組み、総合5位!
この年から、トヨタ7は、5LNAとなりました、。

1970年、トヨタは、5Lツインターボエンジンを
搭載したトヨタ7となりました。
富士1000kmレースに、参戦せず、デモランという形で
お披露目です。

一番手前のオレンジ号が、細谷氏の車両。

アイシンの特性5速ミッションと、ヤマハ製の
ターボ、、。
インタークーラーは、有りませんが、700PSは出ていた
とか、、。

アルミパイプフレームは、当時の917を踏襲した、。
ボディカウルは、当時としては、まだ、FRPからカーボンの
1辺、100mm角のカーボン地を貼り合わせて、。

絵の中央、2台の7の中央に、後ろ姿は、今は亡き、
成瀬さんです。
4号車ある、トヨタ7ターボは、号車ごとに、メカ長が決まって
いて、互いに張り合っていたそうです。

左端に、上半身裸は、細谷さんです。

中央後ろ姿の左側は、シグマ商事(シグマグループで、当時
商事会社を設立、主にガソリンスタンドや、トヨタ輸送さんへ
タイヤなど、供給してました、現サードの同族会社、アタシが
2年か、大卒から教育の為、名古屋の相生山のモービル系
給油所で、徹底的に営業の教育を受け、ガソリンスタンドマン
として、成長させていただいた)専務、長崎さんです。
当時は、彼はダイハツに所属し、ダイハツP3,P5を
開発してまして、出張で、トヨタに応援、トヨタ7を
整備しておられました、。

一番右は、栗谷さんと言います。
一家のお父さんの時代から、当時は、豊田市の土橋町で、
うどん屋さんを営んでおられました。
現在は、場所を変えて、栗谷さんの弟さんが、、。

栗谷さんは、当時のメカ長さんで、成瀬とは、ライバル、、。
で、1972年,に設立したシグマオートモーティブ(現
サード)に設立時から、加藤社長、小野さんと3人で、
シグマを立ち上げ、生沢さんを伴って、1973年、日本人
初のルマン24Hに、国産マシンで参戦しました。
その車両づくりを、アタシは、学生2年生でしたが、広島から
手弁当で、応援に参加させていただいてました、。

栗谷さんは、今はお亡くなりになりましたが、多くの事を
教わりました、、。
思い出話は、相当長いです、、、色々と、、。

一番の思い出は、1973年3月のグラチャンにシグマ73が
デェビューレースですが、製作が遅れ、木曜に搬入まで、
徹夜が数日続き、殆ど寝れもせず、風呂など、、。
そのまま、ティームは、車両をトラックで御殿場まで、。
そんで、アタシは栗谷さんのドライバーとなり、絵の後ろに
あります、クラウンバンに、荷物をいっぱい乗せ、岡崎インター
から、初めて、東名高速道に入りました、。

緊張してますが、眠いのなんの!
そう言ってると、隣で半寝の栗谷さんが、エエ事教えてやる!
まず、左目を1分閉じろ、そして、次は右目を、、。
そうすると、1分ずつ、寝れる!などと、、。
もう、岡崎インターにはいってから、”もうダメ!目が自然に
閉じます!と、見合いインターに入って、3分休憩、。
そんでもって、確か、行く先々のパーキングを橋渡ししながら
御殿場にたどり着きました。

また、そのクラウンバンは、どうも、トヨタ自動車からの
お下がりであったようで、シートが変更されてました。
このシート、エライ低いですがと、アタシ、、。
栗谷さん曰く、そう、これ、2000GTのやつだから、。

バケットシートになっていて、座面がエライひくいのです。
クラウンバンのステアリングと、ダッシュボードの間から
前方を見るような、潜望鏡のようなスタイルでした、、。

ま、今は良き思い出でであります。
と、細谷さんとは、直接つながってはいませんが、ご縁の
あるお方です。

そうそう、忘れてました!

トヨタ7のエンジンは、ヤマハ発動機さんとの共同開発
ですが、そのヤマハさんのエンジン開発担当者の中に、
現在、アフターパーツメーカーとしては、重鎮であります、
静岡、富士市にあります、HKSの今は亡き、長谷川浩之さん
が、おられました。
で、トヨタさんが、レース活動を止めた時点で、サード
加藤さんが、独立したのを契機に、彼も会社をお止めになり、
お父さんの在所に、工場を建て、最初は、グラチャンマシン
用、2L、4気筒レースエンジンの開発、販売を
されました。
が、そう、最初から上手くはいかず、加藤さんと、共同で当時の
FET極東さんの初代社長、小山さんが、スポンサーとなり、
ハコスカ、L20のキャブターボを開発、日本初の、全国に
ターボKITを販売開始されました。

当時、アタシャ、長谷川さんが、その車両で、サードに
訪れ、何度かお会いしてますが、あの浜松弁で、、。。
また、販売されたL20キャブターボは、カウンターフローの
エンジンで、キャブの下に、アメリカ製レイジェイの
ターボ、熱でキャブレターが、パーコレーションを起こし、
その対策で、頭を痛めました。
愛知県内のお客様で、フェアレデイ30Zに、キャブ
ターボを組み付けた方は、ご希望で、ソレックス、3連に
交換、アタシが、見よう見まねで、アルミサージタンクを
作り、お渡ししましたが、ハコスカ以上に、Zノーズも
付いていたので、まあ、市街地走行は、パーコレーションで
大変でした、、。

昔の思い出でありまする!

つづく。